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第10話 ジョン・ロック

2011年02月07日 02:42

ジョン・ロックの哲学を持ち出すのは大げさと思われるかもしれないが、愛犬たちに去られた今、少し考えてみるのも面白い。馬や犬のような知性ある高等動物を飼う場合の、その自然権と自然法、およびそれの対立軸となる、彼の哲学の根幹を成す「同意」による自分自身をも含む所有権の制限について、考察してみたい。そこには、動物達の幸福について、真実を探求する前向きなエネルギーと、自己満足に浸れる材料が、秘められている。


私は、20数年前、とても可愛がっていた猫を、近所の、リバタリアン的な人が飼育していた犬に、噛み殺された経験がある。「ごめんね~」では、すまない問題だ。一部始終を目撃した母によれば、外には出さず室内で飼育していた猫だが、ちょっとしたミスで外へ出してしまい、外へ出てわずか数秒、あっという間に犬に噛まれ、噛まれたまま頭上で数回振り回され、地面に叩きつけられ、絶命したという。母は酷いショックを受け、以来一度も猫を飼っていない。もう二度と猫は飼わない、と言う。外へ逃がしてしまった自分を責め、思いつめていた。(私はロックの言う獣への恐怖と報復、成敗を論じたいわけではない)


「ごめんなさい」と、軽い調子で謝罪するこのご近所さんは、こう言った。「この子を保健所へ連れて行って死刑にすればいいですか?」と。その一方で、こうも言う。「放し飼いはお互い様じゃないですか?突然うちの子の前に飛び出たそちらの猫ちゃんも悪いのでは?」と。この人は、自然派ということで、借家住まいであるにもかかわらず、多数の犬を「自然のまま」放置し、どんどん増えて、家の中に、いったい何匹いるか分からないような状態を作った人だ。家主の立ち退き要求に対し、引越し先が無い、と生存権を主張し、借家内が犬だらけ、という瑕疵についても、ようするに自然権を言っていると思われる主張を繰り広げ、責任を否定した。


犬とその飼い主には、自然権があるのだろうが、それに対する、ジョン・ロックが言う自然法による制限については、彼の都合のいい言説だけをトリミングするリバタリアニズムでは、はっきりとした反論は見えてこない。ましてや、人間社会に参加するという同意の上で形成されている社会の規範や法律の支配に対しては、ただ自由の重要性を主張しているだけに見える。ロックは、自然法だけでは、社会は、獣が闊歩する暴力の渦巻く世界になってしまうと言っている。私のこの体験は、まさにそれだった。(ただし、昔からいろいろな犬を飼っていた私達は、その犬の死刑など求めなかった。)


犬の自然な状態とは何か。それを、人間の同意の上で形成されている社会の規範に適合させると、どういう変化が生まれるのか。私はここで、犬の自然な状態と天秤にかけ、ジェレミ・ベンサムの、効用の最大化を論じたいわけではない。フリーライダー批判でもない。公共哲学を振りかざすつもりも無い。シンプルに犬の幸福を2つの道で考えてみたい。勝手気ままに生き、本能のまま(他人の大切な子を)噛み殺せる自由と、生涯人間の都合に振り回されるが、飼い主や周囲から愛され、死刑を宣告されることなく過ごす幸せと、犬にとってどちらが幸福なのか。


功利主義の最大幸福原理によれば、善とされるのは、もちろん後者だ。前者の想定は、野生時代の自然界に自由に生きる状態だが、生物学的に、野生の犬と飼い犬とでは、大きな違いがある。現実問題として、飼い犬は野生では生きていけないほど改造されている(犬の「人間化」については、またの機会に話したい)。さらに、ジョン スチュアート ミルは言う。「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。その愚者がもし異を唱えたとしても、それは愚者が自分の側の事しか知らないからに過ぎない」と。


私は、犬の自由を尊重する意見に一定の理解を示しつつ、最初のドーベルマンを、厳格な態度で調教した。


さて、その調教の結果だが、自他共に認める一見申し分の無い犬に成長した。だが、少々やり過ぎてしまった。写真を見て欲しい。どこか異様に感じないだろうか。これらの目は、ひたすら私の合図を待っている目だ。何をするにも許可を求めた。ドアを開けて私が中に入っても、入ろうとしない。ドアの外で許可を待っている。一度フェンスを飛び越える脱走事件があった影響で、許可を叩き込まれ、彼は過剰に許可を求めるようになった。ほど良い程度は、デジタル的な思考の彼らには難しい。人間と犬、互いに分からない事が、実に多い。調教の公式など無いと考えるべきだ。日々あらゆる要素が複雑に絡み、次々に世界初の事例がそこに生まれていると思った方がいい。だから飼い主本人が調教することが重要なのだ。伝えられる公式にこだわり、それを徹底すると、犬はロボットのような反応を示す。ロボット。ロックの哲学は、それこそが、最も嫌悪すべき現象なのだと言っているのではないだろうか? ロボット犬は、業務用には好ましいだろうが、それは、家族の一員となる犬とでは、わけが違う。私は、ロボット的な犬ではなく、忠実ではあるが自由な気質をも持つ、人間的な愛犬を求める。


自分や他者への安全さえ確保できていれば、犬が少々やんちゃでも、深刻に考える必要は無い。ドーベルマンは言うに及ばず、普通の犬でも、最低限のルールは、いつかは理解できる(まあ例外の獰猛な闘犬等はいるが)。調教不可能といわれたチャウチャウが、意外とあっさり私の指示に従い、飼い主の姪っ子たちが驚いた事がある。人間が経験をつみ、腕が上がれば、犬との会話に、私と姪っ子ほどの違いが出るのだ。「この犬アホ?」「この犬全然いう事を聞かない!」と考える前に、まず自分のスキルのレベルを考え、とりあえず犬に、あやまっておこう。私は、「あ!」とか、「ガロガロガオ~」などと叱った後、犬の前では威厳を保ちつつも、心の中では何時も、「チューちゃんごめんね」と、自分の技術不足を反省した。

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門から外へ出る許可を待つイシュ

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家の中に入る許可を待つイシュ

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ボールで遊ぶ許可を待つイシュ



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コメント

  1. WONWON | URL | tYvW6C8E

    どこまで犬に求めるのか

    私自身も今飼っているに大して、どこまで犬に求めるのかという点について悩むことがあります。

    そもそも躾とは、人間社会の中で犬が生きていくために犬に課せられた行動規範だと思います。

    牧羊犬、狩猟犬、警察犬、盲導犬のように犬に求められる行動が明確な場合は、躾の内容もおのずと明確になります。

    ところが家庭犬の場合は、必ずしもそれが明確ではないため、どこまで犬に対して求めればよいのか戸惑ってしまうのではないでしょうか。


    話は変わりますが、私の場合、初めて犬を飼うこともあって、躾に悪戦苦闘しています。

    例えば、ハウスに入るように指示を出すと、まだ入りたくないと逃げ回り、今度は強く叱り付けると、私に体をすり寄せて、つぶらな瞳で私をみつめ「お願いだからまだからもう少し遊ばせて」と訴えます。

    可愛そうになって指示を取り消してしまいますが、やはりこのような場合、一貫した態度で臨むべきなのでしょうか。


  2. Takujuun | URL | -

    Re: どこまで犬に求めるのか

    こんにちは。がんばってますね。ご苦労様です。

    ワンちゃん、飼い主さんの事が、とても好きなんですね。

    ゲージ、うまくいくといいですね!


    > 私自身も今飼っているに大して、どこまで犬に求めるのかという点について悩むことがあります。
    >
    > そもそも躾とは、人間社会の中で犬が生きていくために犬に課せられた行動規範だと思います。
    >
    > 牧羊犬、狩猟犬、警察犬、盲導犬のように犬に求められる行動が明確な場合は、躾の内容もおのずと明確になります。
    >
    > ところが家庭犬の場合は、必ずしもそれが明確ではないため、どこまで犬に対して求めればよいのか戸惑ってしまうのではないでしょうか。
    >
    >
    > 話は変わりますが、私の場合、初めて犬を飼うこともあって、躾に悪戦苦闘しています。
    >
    > 例えば、ハウスに入るように指示を出すと、まだ入りたくないと逃げ回り、今度は強く叱り付けると、私に体をすり寄せて、つぶらな瞳で私をみつめ「お願いだからまだからもう少し遊ばせて」と訴えます。
    >
    > 可愛そうになって指示を取り消してしまいますが、やはりこのような場合、一貫した態度で臨むべきなのでしょうか。

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