FC2ブログ

第210話 最も好きな曲

2016年02月27日 23:27

音楽友達から先日「一番好きな曲は何?」と尋ねられた。好きな曲は無数にあり音楽の好き好きに順位を付けるなど野暮ったい話だが、強いて言うなら、クラシック音楽愛好家としてベタな答えになろうが、やはり「J.S.バッハ ミサ曲 ロ短調 BWV232」か。「ええ~仏教徒なのに!」と言われ、「いえいえ、告白しますが、お葬式では仏教徒の作法をしておりましたが、実は違うのです。ちなみにキリスト教徒でもありません。無宗教です」と答えた。なのに何故よりによってミサ曲?とつっこまれそうだが、そこが音楽の力の偉大さか。名曲中の名曲なので私ごときが御託を並べるなど恐れ多いのだが、キリスト教徒でなくても下に紹介したような名演(2時間近い大曲の、たった3分ほどの終曲だけだが)を、もし響き最高のこの教会で、生で聴けば、気が遠くなるほど感動すると思う。実際私は別の曲だがある演奏会で、感動のあまり意識を失いそうになった事がある。ああ怖かった。本当に死ぬかと思った。死んでいたら、私の為のミサ曲演奏になっていたりして。


ところで「ミサ」とはカトリック教会における聖体の秘跡にかかる典礼だけを指す語彙で、プロテスタントでは「ミサ」という表記は全く使われないという。ならば熱心なルター派の信仰者だったバッハが何故人生の最後にこのようなカトリックの大曲を作ったのだろう。まさかルター自身が認めていたからとは言うまい。ルターの死後百年まで続いたカトリックとルター派(プロテスタント)の宗教戦争。いわゆる「30年戦争」ではドイツの人口が激減、一説には1800万から700万にまで減った!という正に地獄の一丁目。何十年も続いた殺戮の嵐が収まり、百年経ってやっと戦争の傷から立ち直ったという時期にこの曲は書かれているわけだが、この終曲の、Dona nobis pacem「われらに安らぎ(平和)を与えたまえ」は、これと同じ曲が中盤のGratias agimus tibi「神への感謝」で使われているし、さらに言えば原曲のCantata BWV 29も神への感謝をささげるもの。だからこの曲は、政治や宗派を超え、ひたすら平和への感謝という風にも読める。


ただ当然、彼の生前この曲が演奏されることは無かった。まだとんでもなかっただろう。本人もまさか演奏されるとは思っていなかったはず、と先日の英国王立音楽院ロイヤルアカデミー音楽白熱教室で、ティモシー・ジョーンズ博士が語っていた。「バッハは脳内で演奏し自分だけこの最高傑作を楽しんでいた」のだそうな。終曲だけだがこの曲の名演、下に紹介した動画は、正式な物で永続的に流してくれる物なのだろうか?そうであることを願うのみだ。実はこれ10年ぐらい前にNHKBSでも放送され、古い録画機で撮ってあるのだが、その録画機は壊れデジタル原本はアウト。仕方なくアナログダビングした酷い物を今まで聴いていたのだが、YouTubeにアップされたこれを本格オーディオで聴いて音の良さにびっくり。やっぱりこの曲は、いい音で聴かないとダメの代表みたいな曲だ。大音量だとフーガ様の対位法の極致がキラキラ輝き、あまりの素晴らしさに気が遠くなる。ピアノで真似したいが、残念ながら腕が2本しかないのでしょぼいフーガにしかならない。そうか博士、足りない分は、おいらも脳内で鳴らせばいいわけね。なるほど。

日本でもお馴染みのヘルベルト・ブロムシュテットさんの名演。何度も何度も聴く人生の宝


DSC_0308.jpg
ピアノは平気なのにヴァイオリンを弾くと激怒するチュー太郎。バッハを弾きたいのにな


 

第209話 会者定離

2016年02月14日 01:04

お別れを、少し哲学的に考えてみる。「お別れだね会者定離さ」。「さようなら会者定離ね」。「生者必滅会者定離」。この言葉、冷たく感じないだろうか。私はとても冷たく感じる。生命や人生は、そんなちっぽけな存在なのか。宇宙が作った神聖なる生存本能DNAの指示とはある意味真逆な思想にも思える。だが死の淵に立った人にとってはどうなのだろう。死の恐怖を和らげ、むしろ温かい言葉と感じるのかもしれない。今日テレビの番宣で数秒見ただけだが、数千人を看取ってきたというある町医者がつぶやいた。(苦しみから解放されやっと)安らかな とわの眠りつこうとしていたのに、家族が救急車を呼びERへ。そこでは電気ショックやら喉や体を切るなどの激しい救命処置が。結果、死の苦しみがさらに数ヵ月続くことに・・・。


安倍首相のブレーンで有識者として首相直属の教育再生実行会議の公職も務めた作家の曽野綾子氏(86歳)の最近2016年2月1日発売の「週刊ポスト」上の提言は、要するに「金がかかるから国家の役に立たない老人は早く死んでね」という事だと思うが、つまり「長生きが許される高齢者は自分達のようなエリートだけにすべき」というのが彼らの理想のようだ。もちろんこういう口にするのもおぞましい非知性的でナチス的な考えには賛同しないが、一秒でも長く生きたいという神聖なる生存本能DNAの指示と矛盾する、死の恐怖と計り知れない苦痛を長引かせてまで延命させることへの疑問は、極端な例だが結局のところこの「早く死んでね」という論法と部分的にではあっても同類になってしまうという現実がある。


そこで「生者必滅会者定離」をもう一度考察してみる。諸行無常すなわち宇宙、と考えたらどうだろうか。DNAもしょせんは粒子の集合体にすぎない。粒子は宇宙内では増えたり減ったりはせずその形状の変化で人間と空気を分けている。そこは、諸法無我なのだ。これでDNAの神聖性を哲学的に否定できる。そして、苦しみからやっと解放され、安らかにとわの眠りつこうとしているとき、それは尊い涅槃寂静のすがたといえまいか。ならばあらゆるとらわれから解放され絶対自由を得られようとしているそのとき、それを他ならぬ家族が愛の名のもと奪ってしまうのなら、これはかなり悲劇的な事態となるかもしれない。


回復の見込み無し、余命あと数日で、生命維持装置に繋がれた状態で一瞬正気に戻ったとき、病室の天井を見ながら何を考えるのだろう。再び死の恐怖と苦痛に立ち向かわなくてはならない事にうんざりするのか、あるいは自由は無いがただただ一日寿命が延びた事を喜ぶのか。いずれにせよそこからまた悟りの境地は遠かろう・・・。「生者必滅」そして「会者定離」。別れは来る。必ず来る。愛するものとの別れ。この世との別れ。その時そうつぶやいてみれば、それは厳然たる事実なのだから、たとえわずかでも、きっと心を和らげる言葉になろう。私はそう思う。


昔大変お世話になった方が余命あとわずかだそうな。70代後半の女性。言葉が出ない。代わりにこの曲を捧げたい。追記:永眠されたとのこと。心からご冥福をお祈りします

前に紹介した曲。ちょうどこんなようなことを考えていた時に作った曲

DSC_0344.jpg
この文章を書いている時のチュー太郎。温かい。思わずキスしたくなる可愛さ。長生きしてね、チュ。

DSC_0321.jpg
座布団の上でくつろぐチュー太郎。外の草の上よりこちら方が好きらしい

DSC_0336.jpg
外で楽しめるよう試しにジャンプ障害物を置いてみた。

DSC_0335.jpg
今のところ全然興味が無い模様